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楽譜 [翻訳考]

 (略)ともすると現代の人間は、音楽に限らず、紙の上に印刷されたものだけに全幅の信頼を置くという傾向がある。とりわけ西洋音楽の場合、二十世紀に入ってから盛んとなった「作品に忠実に」という理念を掲げる新即物主義が、楽譜にないものを加えるということに厳しい批判と抑制を加えたため、この傾向は一層助長されることになった。

 もちろんこれはこれで、十九世紀のロマン的主観的解釈、それも多分に恣意的な解釈をより厳正なものに近づけるという意味で大きな意味を持ってはいた。しかしながら、この「作品に忠実に」ということがなかなかの曲者なのである。ここでは残念ながら、作品というものについての美学的論議は避けざるを得ないが、今その作品に到達すべき最も重要な手掛かりである楽譜というものを考えたとき(本来、作品と楽譜は、はっきりと区別されねばならないのだが、たいていは混同されている)、そこに書かれた音符を、ただその長さや高さそれに強さなどを書かれたとおりに弾いたからといって、それで音楽になるわけではない。

 一つひとつの音符は、それが記された時代や、あるいは民族、風土、作曲者自身の個性や考え方まで、実に様々なものを担っているのである。いわば一つ一つの音は、抽象化された絶対的な音という性格をもつと同時に、単に抽象的な無色透明の音なのではなく、すべての現実性が封じ込められているものなのである。だからその音が現実に鳴り響かせられるとき、純粋な音としての美しさをもつと同時に、奏者の手によって、そこに封じ込められたすべてが開放されねばならない。しかしこれは必ずしも易しいことではない。なぜなら、そのためには、奏者の中ですべての現実性が豊かに生き生きとイメージされていなければならないからである。

―中村孝義「室内楽の歴史」


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