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ことばの奥行き ブログトップ
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日本語の語順 [ことばの奥行き]

 ある新聞記事に

(フォルクスワーゲンのSUVにはバンパーの下に足を入れると荷室のドアが開く機能が搭載されている。)車両後部のセンサーが足の動きを検知して、荷室やトランクの扉を開く仕組み。同じドイツ車のBMW「3シリーズ」、……などにも、同じ機能は装備されている。

とあった。日本語は比較的自由に語順を変えることができるが、この文は、

車両後部のセンサーが足の動きを検知して、荷室やトランクの扉を開く仕組み。同じ機能は、同じドイツ車のBMW「3シリーズ」、……などにも装備されている。

とした方が、分かりやすく読みやすいように思われる。「は」は話題を提示する機能を持っているから、「同じ機能は」は冒頭に持ってくる方が分かりやすい。あるいは、

車両後部のセンサーが足の動きを検知して、荷室やトランクの扉を開く仕組み。同じドイツ車のBMW「3シリーズ」、……などにも、同じ機能が装備されている。

としてもよさそうだ。この文の場合は、文頭の「……などにも」で、フォルクスワーゲンに並置した記述であることを示している。したがって、主語は「同じ機能は」ではなく「同じ機能が」となる。

 つまり、この部分の主題が「車種」であるか「機能」であるかによって、語順が変わってくるのである。

 英語では語順は比較的固定されているが、たとえば、

Take off your hat.

Take your hat off.

などのように、順序を入れ替えることのできる場合がある。しかし、この場合も、ニュアンスには違いがあるそうだ。


イデアルと煙り [ことばの奥行き]

 僕は出掛けた、底抜けポケットに両の拳を突っこんで。僕の外套も裾は煙のようだった。

 これは、「わが放浪」と題するランボオの詩の書き出しの二行だ。原文はこうなっている

 Je m'en allais, les poings dans mes poches Crevees.

 Mon paletot aussi devenait ideal.

 第二行目の、外套が観念的になっていたという表現の移植に難儀した。意味は勿論、ぼろぼろだったという意味だから、訳の方も、「僕の外套もぼろぼろだった」とでもして置けば、一応は片づくわけだが、それでは専らぼろが目につくだけで、むしろそれを興がっているようなランボオの楽天的な気持ちは全く失われてしまう。

 ランボオは、ぼろという字は使っていない、使わずに、それを面白おかしく現わしている。暫く考えると、「僕の外套も、裾は若布のようだった」という訳が浮かんで来た。先のぼろの時よりはいささか増しのようだが、先ず五十歩百歩というところ。ランボオが、イデアルといしくも言い抜けて、物質的な言葉を全く用いてないことに思い至ると、この訳もやっぱり駄目だ。イデアルには遠く及ばない。あきらめて、一時、僕はこの詩篇の訳を放擲した。菲才の僕の才覚ではどうにもならない事だった。天助を待つより他に方法はないらしかった。

 ところが、天助は案外手近なところに、あった。数日後、見るともなく、座右の良寛和尚の遺墨に眼をやっていると、

  七斤布衫破如煙

 という一句が目についた。これだと思った、しめたと思った。早速、さきに中絶したランボオ詩に置いて見た。即ち、

 僕の外套も、裾は煙りのようだった

 イデアルは煙りとなった、在るようでないようで、二つながら、在るには在るが、さて一向につかみがたくて、まんざらゆかりがないでもない。ランボオが意志した言葉もイマアジュも、どうやらこれで移せたようだ。地下のランボオ詩人も良寛和尚も、よろこんで下さると思う。すくなくとも訳者の僕はよろこんでいる。

―― 堀口大學「泉よ、どこから」(「バナナは皮を食う」所収)


島々や [ことばの奥行き]

 「島々や千々にくだけて夏の海」という俳句が思い浮かんだのは、芭蕉翻訳の大家の、昔ぼくがいたスタンフォード大学のマコト・ウエダ教授が、

All those islands!

Broken into thousands of pieces,

The summer sea.

と訳していたのを覚えていたからです。

 この俳句においては、十七文字しかない形式の中で、五文字も使って、「島々や」で始める。単数・複数はないとよく言われている日本語で、です。最近は日本語でも「たち」などと言いますが、もともとはそうした複数性を表記しないのが日本語です。それなのに俳句の十七文字のうちの五文字も使ってわざわざ「島々や」と言うと、むしろ英語にもないような複数性を強調することになる。だからそれに対する、'all those islands!'は、素晴らしい訳なんです。

――リービ英雄「越境の声」収載「<9・11と文学>」


あなたは悲しい [ことばの奥行き]

(4)あなたは悲しい。(You are sad.)

(5)彼は悲しい。(He is sad)

(4)(5)は英語なら問題ないが、普通の日本語では不自然である(たとえば(5)は小説のなかなら可能だろう)。自然な日本語なら次のようになるはずだ。

(4’)あなたは悲しそうだ。

(5')彼は悲しそうだ。

日本語は客観的な表現を目ざすよりは「私」の視点から主観的な表現で満足する。

(「(4)」などは原文では丸付き数字)

――野内良三「偶然を生きる思想」


ものの見方を磨く [ことばの奥行き]

 適切な表現にたどりつくには、意味と語感の二つの道があるという。意味には字引という案内人がいるが、語感には道しるべもなかった。近刊『日本語 語感の辞典』(岩波書店)の著者中村明さんが、先頃の読書面で出版を思い立った理由をそのように語っていた。

 「言葉を選ぶ時に多くの表現が思い浮かぶのは、ものの見方が細やかということです。ものの見方を磨かないと、表現は増えません」。中村さんの指摘は、言葉を生業(なりわい)とする者すべてに重い。

――朝日新聞2010年12月16日付け天声人語


潮干にみえぬ沖の石 [ことばの奥行き]

 英文を和訳するのに英文を解釈する必要があるのは当然だが、それより何より必要なのは日本語に対する感性だろう。これが日本語かと驚くような訳文をあちこちで見るにつけ、自分のことは棚に上げて、つくづくそう思う今日この頃だ。

 また、黒川能をになっている人々は、謡の文言に鍛えられた言語のやさしさをもっている。私がもう三十年もの間、定宿にさせてもらっている家のおじいちゃんは、戦後シベリア抑留にも耐えて生還した強い身体をもっているが、戦中・戦後という歴史の変動のすばやい中を駆けぬけた半生に「いろいろ思い出もおありでしょう」などと愚問を発した時、こんな言葉で応じてきた。ごくふつうの会話体で、「潮干にみえぬ沖の石のォ」と言うのである。私は思わず絶句した。

 誰も知っている「百人一首」の歌で答えたのである。「わが袖は潮干にみえぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし」、二条院讃岐の歌だ。まるで昔物語の中の人のように、歌の一部を口ずさんで、下句を言わずに返答にかえたのである。歌よみの私はあまり鮮やかな言葉わざの場面に、不甲斐なく嘆息を漏らすことしかできなかった。

――大石芳野、馬場あき子「黒川能の里 庄内にいだかれて」


千年を経て伝わる言葉 [ことばの奥行き]

現代の言葉は千年の後まで伝わるだろうか

天の海に

雲の波立ち 月の船

星の林に こぎ隠る 見ゆ

 万葉集巻七を開いた途端に目に入る、「柿本人麻呂集に見える」とある歌である。この歌は七夕伝説にまつわるもののように思えるが、そんなことを知らなくても、ともかくも、千年以上も昔から伝わっているこの日本語が、今読んで難解でもなければ、少しも古くなっていない不思議さに打たれる。

――大庭みな子「虹の橋づめ」から「星」


しづこころなく [ことばの奥行き]

静か賤か

  ひさかたの光のどけき春の日に
  しづこころなく花の散るらん

 百人一首にあるこの歌は、「しづ・こころ」ではなくて、「しづごころ」つまり「賤心なく」と読むべきであるという。たしかに、意味を追って考えると、そう読まなくてはならないはずだ。しかし、「賤心なく花の散るらん」では、どうも往生際のよくない政治家のことでもからかっているみたいで、久し振りに春の明るい日射しをあびたというノドカな幸福な気分と釣り合ってこないのである。これは、どうしたって「しづ・こころなく」、つまり静かに無心に花が散っていくというふうに読みたい。

 いや実際は「こころなく」は、「無心に」というのとは違うだろう。それに「しづ」を「静」と読んで、あとに「こころなく」とつけるのは文法上無理である。やはりこれは「賤心なく」と読むほかはないだろう。

――安岡章太郎、「父の酒」より「風の姿」


言語と地図 [ことばの奥行き]

思ったままを書きなさい

 言語はいくらか地図に似ている。地図が実地に忠実に再現しているというのは、ことばが実際を伝えるというのと同じくらい粗雑な考えで、表現されるのは、実体そのものではなくフィクションである。それがあいまいになっているのは習慣のためであろう。

<思ったままを書きなさい>ノンキな教師がそんなことを言うのは、ことば、表現を知らないからで、どんなことばの達人でも、そんなことできるわけがない。書けるのは、思ったことの一部でしかない。意余ってことば足らないのが正常なのである。

――外山滋比古、「木石片々録109『筆舌に尽くしがたし』」(「みすず」2009年3月号)


千と千尋の神隠し [ことばの奥行き]

言葉の力

――『千と千尋の神隠し』のなかで、言葉に力があるということが描かれてますね。

宮崎 昔の物語にはよくあるんです。本当の名前を当てるとかね。本当の名前を自分では持ってて、よほど親しくないと言わないというような文化的な基盤とか、そういう歴史的なものがないと言葉の力っていうのは伝わらないですよ。

養老 そもそも「諱(いみな)」っていうのはそうですね。中国では君主や親以外は本当の名前を呼ぶことを憚(はばか)るんです。有名な諸葛亮(しょかつりょう)は諸葛が姓で亮が名前(諱)ですが、亮のかわりに孔明という字(あざな)が知られている。本当の名前を知られると、その人に思うようにされるっていう考え方がいろんな文化にある。

宮崎 日本にもあったんですよね。現代では、言葉にそういう力がなくなってますね。言葉はどうにでも言えるものだっていうふうにね。

――養老孟司,宮崎駿「虫眼とアニ眼」から,「『千と千尋の神隠し』をめぐって」


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