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「の1つ」異聞 [翻訳考]

 あるニュースサイトの記事に、次のような文があった。

愛知県新城市にあるオブラートの会社は、現在、国内で3社まで減ってしまったオブラート製造会社の1つで、国内シェアの7割を占めています。

 この文、一読で意味がわかるだろうか。中間の節を読んでいるところで混乱し、最後まで読んで初めて文意がわかった、という経過を辿ることになったのではないだろうか。もし、この文を

国内でオブラートを製造する会社は、現在、3社にまで減ってしまいました。愛知県新城市にあるオブラートの会社はその一つで、国内シェアの7割を占めています。

などと構成していたら、初見でもずっと読みやすくなっただろう。

 この記事を書いた記者は若い人のようだから、こうした英文直訳調の文章を目にする機会が多く、そうした文に引きずられたのではあるまいか。

 ここで、最初の文を再読してみてほしい。面白いことに、今度は一読で文意がわかるだろう。あらかじめ文の構造がわかっているので、意図されているように「解読」でき、文意がわかるのである。

 だから、翻訳する際は、訳文が一通りできあがったら、一晩寝かし、頭をリセットしてからもう一度見直す、理想的には別の人に読んで貰う必要があるのである。


数少ない……の一つ [翻訳考]

 朝日新聞の書評(瀧本哲史氏によるリンダ・グラットン、アンドリュー・スコット「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)」に関する論評)に、次の件があった。

これだけのことが同時に起きれば、一つの会社でフルタイムで終身雇用という「幻想」が成り立ち得ないことは、どんなに鈍感な人でも気がついたように思う。とはいえ、こうした環境の変化に対して、不安をあおるのではなく、新しいパラダイムを提示する言説は少ない。その数少ない本が、本書である。

 日本語の論理に従った読みやすく分かりやすい文章だ。これが、翻訳調だと

これだけのことが同時に起きれば、一つの会社でフルタイムで終身雇用という「幻想」が成り立ち得ないことは、どんなに鈍感な人でも気がついたように思う。そうした中、本書は、こうした環境の変化に対して、不安をあおるのではなく、新しいパラダイムを提示する数少ない言説を述べた本の一つである。

といったような文書になっただろう。翻訳物でよく見る表現だが、論理展開が錯綜しており、実に分かりにくい。

 たとえば、住所を書く場合、英文では狭から始めて広に至るが、和文では逆になる。一般に、英文では関係節や分詞構文、挿入句などで畳み掛ける表現が可能である。一方、日本語で表現する場合は、節ではなく文を重ねることになるだろう。

 いくら逐語訳が得意な産業翻訳者でも朝の挨拶 Good morning! を「良い朝」とする人はいないだろう。なのに、「一文は一文に」などの不可思議な要求をするのは何故だろう。詰まるところ、文の意味を理解せずに訳しているのだろう。


その中の一人 [翻訳考]

 英文でよく見かける表現に、

one of the few books to which the epithet ‘great' can be accurately applied

「偉大な」という形容辞がぴったりする数少ない本の一つ

がある(ランダムハウス収載)。この和訳として、上の例にあるように「~の一つ」と訳文を作る人が多いが、違和感、バタ臭さは否めない。

 英文では、まず希少な本であることを述べ、次いで関係代名詞によってどのような点で希少なのかを説明する。これは重要なことを先に伝えるという原則に沿った構造だろう。一方、訳文では関係代名詞が導く内容が先に来るため、最後まで読まないと意図が掴めない間延びした表現になっており、筆者の意図が十分に伝わらない、場合によっては逆に受け止められる恐れがある。

 では、どうするか。日本語では、文を分けて表現するのが一般的だろうと思う。たとえば、朝日新聞のインタビュー記事(2016年11月5日10時03分「『何者』は最前線のエンタメ 川村元気・佐藤健らが語る」)に、次のような件があった。

「この人の意見を聞きたい」と思う人って、なかなかたくさんはいないじゃないですか。元気さんはその中の一人ですね。

 これは会話での例だが、文章でも

元気さんは、「この人の意見を聞きたい」と思う数少ない人の一人だ。

と書く人はいないだろう。最初の会話例のように、三段論法的に表現する方が話題の転換によって注意が喚起され、また合理的でわかりやすいと思う。これが和文における表現の原理ではなかろうか。住所を大きな単位から小さな単位へと書く英文と、大きな単位から小さな単位へと書く和文の違いでもあろう。

 しかし、産業翻訳業界では、「1文は1文に」なんぞと訳のわからないことを言うエージェントが多い。この人たちに「言葉を生業にしている」という自覚があるとは思えない。


夫と結婚 [翻訳考]

 ある文章を読んでいて「夫と結婚」という表現があって驚いたことがある。他の女性の夫を奪ったという物騒な話ではなく、「ある男性と結婚して、夫とした」という意味のようだ。文脈からそれはわかるのだが、日本語では、普通、こういう表現はしないだろう。

 しかし、英文ではこういう表現は珍しくない。というよりも、それが英語の発想だと思われる。「夫と結婚」という表現には、2つの時制が混在している。あるいは、原因と結果が混在していると見ることもできるだろう。英文では、それをコンパクトに表現する。しかし、「論理的」な日本語では、2つの文に分けて表現する必要がある。

 産業翻訳の業界には「一文は一文に訳す」という奇っ怪なルールがあるようだ。わけのわからない訳文が氾濫する所以だろう。英文と和文の構文規則や構成法が異なることを考えれば、「一文を一文に」していたら、筆者の言いたいことが伝わらなくなるだろう。

 英文をその英文の筆者がもし日本語母語話者だったら書いたであろう和文にするのが翻訳ではあるまいか。


ミュージカルと翻訳 [翻訳考]

モーデンによると、かつてのミュージカルの作者たちは人生がどんなものであるかを知っていたから、ミュージカルは文化においてしかるべき地位を占めていたが、これに対して、近年のミュージカルの作者は、低級な文化しか知らず、自分がどれほど無知であるかに気づいていないから自信に溢れている(これこそが、無知というものである)。要するに、近年のミュージカルに欠けているのは知性だということになるであろう。思い当たるところの多い考え方である(ついでに言うと、知性を欠いているのはミュージカルの作者だけではない。現在の東京や大阪はもちろん、ニューヨークやロンドンのミュージカルの観客についても、私は同じ感想を抱くことが少くない)。

―― 喜志哲雄「ミュージカルが≪最高≫であった頃」

 昨今の「?な訳文」を見るにつけ、翻訳も同じだなぁとつくづく思う。訳者も編集者も真っ当な日本語を知らず、それを読む者も日本語感性が貧しいから分かったような「?」に気づかない。これでは、翻訳の質は落ちるばかりである。


馬車とシャツ [翻訳考]

 スタインベックの「怒りの葡萄」だったかと思うのだが、西部に向かって一家が乗る馬車の大きさが想像できなかったと訳者が述懐しているのを「訳者あとがき」か何かで読んだ記憶がある。日本で馬車と言えば、軽トラック程度の大きさを思い浮かべるだろう。しかし、「怒りの葡萄」に登場する馬車は、西部劇に出てくるような、一家全員と家財道具一切を積めるような大きさだ。訳者は、ジョン・フォードの映画「怒りの葡萄」を見て、その大きさを知ったと書いていたように思う。

 このエピソードは、翻訳するには、原文には直接表現されていない馬車の大きさを調べる必要があるということを意味する。その大きさをイメージできて初めて適切な和文を構成することができるのだ。横のものを縦にするだけでは、翻訳はできないのである。昨今の「翻訳記事」は日本語になっていないものが多い。おそらく、日本語力の低下のせいだろう。

 それで思い出したのが、映画「アパートの鍵貸します」でジャック・レモンが髭を剃るシーンだ。レモンはシャツの襟を内側に折り曲げて剃っていた。石鹸を付けてカミソリで剃るので、襟が濡れないようにしたのだろう。このような場合、私ならシャツを脱いでしまう。襟を折り曲げれば、襟が型崩れし傷むからである。一般向けの娯楽映画だから、当時の米国の一般的なスタイルを示すものと見て大きな間違いはあるまい。彼我の違いに、このシーンは妙に印象に残っている。


生き様 [翻訳考]

 朝日新聞ウェブ版に「川村二郎 大人の男の作法」というコラムがある。その第19回「人見て法を説け」に

「生きざま」「生き様」は、言ったり書いたりしないでもらいたいということだ。

……

では「生きざま」と言いたいときはどうするか。私なら「潔い生き方」とか、「媚(こ)びない生き方」と言う。文章であれば、「生きざま」は使わず、その人の生き方を象徴するエピソードを書く。

とあった。

 おかしな訳文が氾濫するのは、これと同様の言語感覚の問題なのだろう。

 英文で使われる表現をそのまま直訳したのでは日本語として落ち着きのない表現、いわゆるバタ臭い表現になることが少なからずある。

 たとえば、good morning を「よい朝(を)」と訳す人は余りいないだろう。日本語では朝の挨拶は「お早う」と言う。表現の由来や観点は異なるが、それぞれの語が使われる状況が対応するので、通常、good morning は「お早う」と訳す。これを「よい朝を」などとすれば、かなりキザに聞こえるか、場違いに感じられるだろう。この語は稀に別れの挨拶にも使われるそうだ。その場合なら「さようなら」となるだろう。

 たとえば、sleep like a top (a log) は「泥のように眠る」とする。「こま(丸太)のように眠る」では、「こま(丸太)」に対する語感が日英では異なり、表現の意味を理解することはできないだろう。

 もちろん、漢文調や明治以降の翻訳から日本語化した表現はある。それが日本語表現を豊かにしてきた面があることも確かだろう。しかし、それならば耳障りなだけの表現ではなく、新鮮に感じられる表現を創り出してほしいものだ。


最初に攻撃、最後に撤退 [翻訳考]

 ベトナム戦争を取材したカメラマン、平敷安常氏は米国海兵隊のモットーである FIRST TO COME LAST TO LEAVE を「最初に攻撃、最後に撤退」と紹介している(「キャパになれなかったカメラマン」)。

 これを翻訳と言っていいのか判断しかねるが(翻訳を意識したわけではないだろうから)、COMEを「攻撃」としたところに、氏の体験が生きているように思われる。「最初に来て最後に去る」では、この言葉の意味は伝わるまい。単なる長っ尻を連想するだけだろう。海兵隊が赴くところは観光地ではなく戦場であり、海兵隊であるからにはその目的は守備ではなく攻撃だ。戦域を離れるとき最後尾が最も危険であることは言うまでもあるまい。氏の「和訳」は、そうした緊迫感をも表現する。字面だけを日本語の単語に置き換えたところで翻訳にはならないのである。


どう読まれるか [翻訳考]

 新共同訳で「掟」(ヨハネ福音書13章34節、ヨハネの手紙一2章7節等)と訳されている「エントレー」について、「掟という訳語は命令、指図の意味合いが強い」とし、「言い聞かせて納得させる、教え導く」との意味合いをもつ「いましめ」(口語訳)の方が訳語としてふさわしいと主張した。

第28回春の聖書セミナーにおける土戸清・前日本新約学会会長の講演(Christian Todayの記事)から

 これは聖書の翻訳についての話だが、ビジネス文書についても同じことが言えるのではないか。

 さらに言えば、単語や文章構成のレベルにおいてその訳文が日本語話者にどのように読まれるかということを考えれば、直訳や逐語訳は決して「原文に忠実」ではないことがわかる。

 ちなみに、広辞苑は直訳を

外国語をその原文の字句や語法に忠実に翻訳すること。

と、また大辞林は

原文の字句・語法に忠実に翻訳すること。

と解説している。「原文に忠実」ではないのだ。


How Translators Vault Over Culture Gaps [翻訳考]

 ウェブを検索していたら、THE WALL STREET JOURNALに興味深い記事を見つけた。

No translation is a word-by-word inventory, ... . To do it well you must also be an illusionist. You make the text disappear into thin air like a magician's dove that reappears in a completely different place, partly refashioned by your own sensibility. This is the dirty little secret of all vital, appealing translations.

翻訳は単語を並べただけの目録ではないのだ。真っ当に翻訳しようと思えば翻訳者はイルージョニストにもならねばならない。魔術師が鳩をそうするように、翻訳者もまたテキストを霧散させたかと思うと、全く違う場所に自身の感覚で組み立て直して現す。それは、生きた訴求力のある翻訳すべてが持つ、人には知られたくない秘密である。

 この記事の筆者は英語とフランス語の違いについて、次のように述べている。

Not really every word. All nine novels I've translated from the French are much shorter in English. Our language relies mostly on syntax, or word order, to create meaning and uses a lot of one-syllable action verbs. French is full of prepositions and word endings because of its syntactical nature. Its utterances are longer but often more precise.

 ゲルマン系の言語とラテン系の言語でも、こうした違いがある。ましてや、英日間では「原文通りの」直訳などあり得ない。

 もちろん、これは文学界での話である。しかし、産業翻訳が対象とする文章がすべて事実のみを語っているかといえば、全くそんなことはない。技術系の解説書であっても、さまざまな思いを込めて書いていることが多いし、何よりも事実の説明の仕方が異なる。

 一般向けの科学雑誌記事の翻訳で、査読した専門家に「内容を理解して翻訳している」などと何度か評されたことがあるが、逆に言えば、内容を理解しない(できない)で字面だけで翻訳しているケースが多いという実態があるのだろう。

 翻訳者はイリュージョニスト、だとしても、「原文通り」がイリュージョンであることを、いい加減、認めるべきではなかろうか。